コラム4.日本伝来

作成日2000.4.3.更新2005.5.9.

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さて将棋の伝来期ですが、実ははっきりした事は分かっておらず、将棋史研究の間でも諸説あり、いまだ確定されていません。

 その理由ですが、将棋に関する記述・文献・資料など、いずれも少なく、伝来を示すような外交文書が一切無いためです。また、将棋とセットでとらえてしまう事の多い囲碁が、将棋とは対照的に伝来期がはっきりしており、それに影響されて将棋の伝来も同じ頃だとする説がいまだ多いことも諸説ある理由の一つです。

 囲碁に関する資料としては、当時の資料としては最も信頼できる皇室関係の資料として存在するからです。

関西圏の方なら比較的ピンと来るかもしれません。 それは、奈良県正倉院宝物殿に、当時の天皇への献上品として囲碁盤(それも当時のありとあらゆる工芸技術を駆使した、現代の囲碁・将棋盤とは似ても似つかない豪華な化粧の施されたものです。)が奉納されており、目録にもしっかりと記載されています。

「木画紫檀棊局」正倉院宝物より

 つまり、囲碁に関しては奈良時代には確実に日本に伝来しており、その前後には貴族階級において遊ばれたであろうと考えられます。

 これは、囲碁は将棋と違い、中国が発祥地であると言うことが考えられ、遣隋使・遣唐使などの外交や交易を通じて比較的早く当時の日本への贈答品として豪華な盤が作られていたからだと思われます。将棋はもちろんインドが発祥であり、その伝来もシルクロード経由の中国・朝鮮からのケースと、東南アジアから南方ルートでのケースとが考えられ、一概に囲碁と将棋をセットで考えるのは早計であると思われます。

(余談ですが、将棋は戦争シミュレーションゲームとしてインドが発祥であるのに対し、囲碁は古代中国の占星術の道具として、星の位置を確認するために作られたものがゲームとして遊ばれるようになったものです。)

  つぎに、では将棋に関する最古の資料は何なのかと言いますと、これも不思議な事に奈良県の興福寺旧境内の遺構より、発掘された駒16点と木簡(当時の記録ノート〈紙〉の代わり)が現在のところ最古とされています。それは同時に発掘された木簡に、「天喜6年7月26日」と書かれており、西暦にして1058年と判明しているのが理由です。

 同時期の文献として、藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる『新猿楽記』(1058〜65)に将棋に関する最古の記述があり、それを裏付ける証拠となりました。

  そんな事実により、将棋に関する伝来期は、囲碁よりも遅い時期、平安時代に入ってからではないだろうかという説が私自身も有力と考えています。

 一方、中には6世紀伝来、という囲碁よりも早い時期に伝来したとする説も一部の学者の間であり、根強く論じていますが、それを裏付ける証拠は一切無く、あくまでも推論でしかないという、なんともお粗末な説もあります。 なぜなら、囲碁だけが正倉院に奉納され、将棋は何故無視されたのかと言う点において、明確な答えは無く、ただ、「当時将棋盤は粗末なものしか作られていなかったから」という暴論といえるような答えしかないからです。 また、「囲碁は上流階級の遊び、将棋は下層階級でのみ遊ばれたのだ」という説で強引に結びつけようとする説もある始末で、なんとも説得力に欠けています。

  この点に関しては、前述の参考文献でお読みになられたほうが詳しく六世紀論の矛盾点を綴っていますので、興味があれば読んで見てください。 (引用させてもらっているので宣伝も必要かと…^^;)

  さて、伝来ルートについてですが、これもはっきりとは分かりません。ただ、日本周辺の『将棋ゲーム』の駒や、ルールなどの共通性から、ある程度の予想は出来るようです。

どちらかと言うと、東南アジア地域の将棋のほうが共通性が高く、伝来としては南方ルートが先で、後に朝鮮からの伝来との融合によって平安期の将棋が完成したのではないだろうかと、私見ではありますが考えています。

 そして、日本の将棋駒はどうやって現在の名前になったのでしょうか? 将棋史を研究する人の間では将棋伝来とともに最大の謎と言われています。推定論ではあるのですが、ひとつ非常に興味深い説があるのでそれを会長流にまとめてみたいと思います(日本将棋と仏教観で紹介します)。