コラム8.現代将棋への変化と流行

作成2000.4.17.更新2005.5.10.

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 小将棋の流れから現代将棋が登場したわけですが、それはいつ頃なのでしょうか?

 実のところ詳細は不明となっています。ですが、少将棋(酔象が登場するほうです)から現代将棋への変化は盤面でみると酔象が消えただけの微妙な変化であります。そこに持ち駒(駒の再利用)ルールが登場するわけですが、そのルールが登場したいきさつも実のところあまりはっきりした証拠がありません。

ですが、おおよその見当はついていますのでそのあたりを解説したいと思います。

 

1.40枚型少将棋の発見。

 16世紀後半といえば戦国時代のクライマックスと言っていい時期ですが、この頃の遺跡から大量の将棋駒が発見されています。 それは福井県一乗谷の遺跡で、ここは当時朝倉氏が支配していた土地でした。後に織田信長によって滅ぼされるのですが、その遺跡調査から、174枚もの将棋駒が出土しています。

 大体は歩兵なのですが、そのなかからたった一枚だけ、酔象が発見されているのです。

ですが、出土駒の中に中将棋特有の駒は一切見つかっておらず、この酔象は少将棋の酔象であっただろうと判断されています。174枚の将棋駒は歩兵の数から六組程度の小将棋になるのですが、文字の書体などの違いから十組程度になると思われます。

 ですが、酔象はたったの一枚だけなので、この当時にはすでに現代将棋と少将棋が混在していたのではないかと思われています(ただし、再利用ルールまで登場していたのかはわかりませんが)。

で、その酔象の少なさから見て、16世紀後半ごろには少将棋はかなり廃れてきており、現代将棋か、またはその過程となる40枚型小将棋が主流になっていただろうと推測されています。

 

2.天皇がルールを変えた?

 さらに時代が下って1696年、元禄年間に出版された『諸象戯図式』に次のような記述があるそうです。

「天文年中(1532〜54)に後奈良帝が日野亜相藤晴光、林伊勢守平貞孝などに命じて酔象の駒を除く」

 これが現代将棋のはじまりだという説明になるのですが、否定はあとにして、もう少し話を加えると、当時の少将棋は持ち駒ルールがない分、単純な遊びとなっていたのは既に解説しましたが、この頃になると先手必勝・後手必勝となる軌跡(駒の動かし方・定跡のこと)がある将棋名人によって編み出されたとされており、それにやる気の無くなった天皇が、勝てない将棋は面白くないとして酔象を除き、新たに持ち駒ルールを作って現代将棋を作ったと言われています。

  ですが、実際に後奈良天皇が将棋を愛好していたのかは不明で、当時の日記にも無く、そこにこのようなわがままを実際に言ったのかという事実も一切無いのです。 ですから、江戸時代に入って、少将棋が完全に歴史のものとなってから、当時の人々が創作した作り話ではないだろうかと言うのが現在の見方です。

 今でも持ち駒ルールの登場にまつわる歴史は、将棋史において最も重大な関心事でありながら謎とされているのでした。

 

3.日本だけの再利用ルール

 2.の続きのようなものですが、駒の再利用について触れておきます。

 世界中にいろいろな形で広まる事となった『将棋ゲーム』ですが、そのほとんどはインドのチャトランガの流れを受けて、「相手の駒を倒す事=その駒を殺した」と言う風に考えており、取り捨てルールとなっています。

日本の将棋も中将棋をはじめとしてその全てが取り捨てルールだったわけですが、現代将棋の登場において、世界初の持ち駒(再利用)ルールが登場します。この登場のわけには、どのような歴史があったのか、今のところ不明なわけですが、言える事として、当時の日本社会の風土性・地域性・人種性といったものが挙げられると思えます。

 戦国時代をいい例として、日本の戦争に人質というものがどれくらい多かったかと言う事です。

大河ドラマをご覧の方ならおわかりでしょうが、葵三代の中で関ケ原合戦のために東軍・西軍どちらもが味方を増やそうとして、各地の大名の妻子を人質としたのはよく覚えているのではないかと思います。その中には細川ガラシャのように自刃を選んだ悲しい話もあるのですが…。

 合戦自体も、皆殺しにするというよりは、敵の戦意をいかに無くすかがより重要で、敵将を討ち取るよりも生け捕りにしたほうがより有利な展開を生み出すこともあります。

  他国の歴史に見られるような、宗教の違いなどによる思想的対立の戦争が、日本においてはあまりおこらなかったのもあると思われます。(どうしても思想の争いは最終的に皆殺しを選んでしまうものなので)そういう風土・人間性の違いの中で、再利用ルールが発案されたと考えるのも結構あたっているかもしれません。

 

4.現代将棋の流行

 ここは日本将棋連盟さんが熱心に解説するべきところなので(笑)簡潔に解説したいと思います。

戦国時代に各国の大名の中で、将棋・囲碁好きな大名がけっこういたのは知られていますが、そういう身分の人が、当時一部の将棋名人・囲碁名人を招待したり、中には指南役として家来に召抱えるところも出てきます。その中でも、徳川家がそのような人たちを庇護したのは歴史的にも大きな出来事だったといえます。

 江戸時代に入って、将棋指し・囲碁指しの名人に俸禄(20石から50石)を与えたことによって、幕府公認の遊びとなったことで現代将棋は確実に日本中に定着します。 

 一方、中将棋も公家中心に愛好されつづけており、こちらは公認されなかった側とはいえ、細々と昭和初期に至るまで京阪神地方で指されつづけています。