中将棋や大 将棋を指した思い出

(草場さん 55歳 東京練馬区在住 ゲーム研究者)

      *執筆者の了解のもと mixiの日記から転載です。



草場純さんの日記
全体に公開

2006年09月08日
20:37
 将棋を指す
  昨日の日記 2006年9月7日木曜日

  将棋を指す

 子供の頃は、回り将棋、お金将棋、挟み将棋、跳び将棋、雪隠詰め、本将棋などで遊んだ。本将棋は父親にルールを教わり、友達ともやったが、全然強くなら なかった。近所の酒屋の子が強かった。
 小学生当時から教授の面持ちがあり、後に本当の大学教授になるH君は、将棋も囲碁も麻雀(家族麻雀)も好敵手で、将棋は3回に1回私が勝てる程度で面白 かった。囲碁は、初めてシチョウをやられ、次の回にシチョウアタリをやられて、何と悪辣なゲームだと思った。
 初めて「大将棋」「中将棋」の名を聞いたのはその彼からである。

 小学生時代に彼が知ったのは多分百科事典などからだろうが、彼は
「中将棋も大将棋も今は指されていない。」
と言っていた。実際には関西ではまだ細々と中将棋は指されていたのだが、我々にそんなことは知りようもなかった。
 私はまだ見ぬ「大」将棋に憧れを持った。

 H君は1969年に彼は国会図書館で「大将棋絹篩」を見つけてきてくれた。当時は、二十歳前でも学生なら国会図書館を利用できたのである。絹篩は、「き ぬぶるい」と読むのだが、当時の我々は読み方を知らず「大将棋ケンスイ」と呼んでいた。
 そこで私は初めて古将棋類を見たのである。

 我々は手分けをした。彼は色々な文献を渉猟し、私は紙を切って大将棋の盤と駒を作った。中将棋は意外に駒数が多く、大将棋の方がてっとり早いからであ る。
 彼は大将棋にも二種類あること、他にも広将棋などがあることなどを突き止め、七国将棋などという凄いものも見つけてきた。少し後になるが、私は色紙を 切って、七国将棋も自作した。これは碁盤の上でやるので、駒を小さく作れば、盤の心配はない。

 しかし、実際にH君と大将棋を指したのは1回きりだった。
 理由は三つあって、一つはルールの細部で分からないところが沢山出てきたのだ。そのつど暫定的に決めてやるのだが、結局大将棋を指していないのではない かという不安は否めなかった。
 もう一つは、やっぱりまだるっこしいのである。特に小駒が広い盤上にエッチラオッチラ出かけていくのは、手数がかかってじれったい。しかしもっ と鬱陶しいのは、駒の動きがよく分からないので、一覧表と首っ引きでやらなければならないという点だ。自分の駒を動かすには、自分の駒の動きももとより、 相手の駒の動きも分からないと、利き筋が分からないので、二重に大変である。これはまあ、段々慣れては来るのだが。
 そうして最後は、手筋も定石も分からないので、かなり思いつきで指すのだが、これが結構きついという点がある。とにかく自分ら以外に指す人が いないのだから、何の指針もなく、いい手か悪い手かも分からないのは、どうにも不安だった。逆に考えれば誰もやっていないのだから、どうやっても指したこ とにはなりそうだが、なかなかそういう気持ちになれなかった。なぜかと言えば、我々は普通に将棋は指せるが、決して棋力の高い方ではない。あとから見たら かなりひどい将棋を指していることになっているのではないか、無用な心配なのかも知れないが、そういう思いで気が引けたのである。

 こうして中将棋もその他の古将棋も、実戦はほぼ諦め、専ら文献の検討になってしまった。

 丸尾学さんに出会ったのは、オセロを通じてなので、1970年代の初頭だろう。知り合ってすぐ、彼が完全情報ゲーム一般に、非常に堪能だという ことを知って頼もしかった。囲碁のプロになろうか、将棋のプロになろうか、本気で迷い、結局戦後の苦しい時期なので、会社勤めをしたという経歴である。 碁・将棋・麻雀は言うに及ばず、連珠・チェス・象棋・オセロの腕前も高かった。

 丸尾さんを通じて私は、当時医科歯科大でやっていた旧パズル懇話会に参加した。ここで、高木茂男さん、芦ヶ原伸之さん、有沢誠さん、土橋創作 さん、小谷善行さん、滝沢清さん、秋山久義さんなどの知己を得た。カピタンを紹介してくれたのも、創刊前のニコリに引き合わせてくれたのも、丸尾さんであ る。詰将棋パラダイスも、丸尾さんの薦めで定期購読するようになった。(彼は虫食い算研究室を担当していた。)

 丸尾さんが古将棋の研究をしていると知ったのも、知り合った直後である。私はH君以外に初めて同好の士に出会った。互いの家にも訪れ合い、娘さんとオセ ロも打った。フェアリーチェスやフェアリー詰将棋についての知見も与えてくれた。
 そうしたとき、丸尾さんがあるプロジェクトを提案してきた。全ての将棋類を指して棋譜を残そうというものである。私はかつて大将棋を指した経験から逡巡 した。
 最も問題なのはルールが確定していない点だと、私は主張した。

 古文献には写本が多く、また記述の曖昧なものが少なくない。異本が多く、相互に矛盾したり、全く違うことが書いてあったりする。
 実際、当時指したチャンギやマックルックは、今から振り返ると一部間違ったルール(と言うかローカルルール)でやっていた。チャンギやマックルックだか ら検証ができるが、古将棋は正しい正しくないの判定そのものが困難である。こういうものをやる意味があるのだろうか。
 更に私の考えでは、大将棋以上は、一種の空想の産物であり、思考の遊びであって、実際に指されたことは一度もないと思われた。これは当時も、今も、同様 な意見を述べる人は多い。要するにファンタジー小説を真に受けるような話で、滑稽ですらあると、私は考えたのだ。

 だが丸尾さんは、引かなかった。それを証明するためにも指すべきだと言うのだ。
 ルールは全て自分が調べ、暫定的であっても確定したルールを提示するからそれでやろうと言った。また用具も全て用意すると言った。棋譜も面倒なら自分が 採ると言う。
 私は古将棋の再現と言うよりは丸尾将棋になると主張したが、指してみて問題点や疑問点を洗い出すのは、決して意味のないことではないという意見は、それ なりに説得力を感じた。
 すると最終的な問題は時間と場所である。それも私に極力合わせると言う。泰将棋などはどれくらいかかるか分からないと思ったが、そのための棋譜で、時間 がなくなったら改めて指し継げばいいと言う。
 私は押し切られた。

 丸尾さんはどうやったのか知らないが、安い白木の駒を大量に仕入れた。これに一枚一枚墨で駒の名を、少し小さめに書き込んで行くのである。裏に は成り駒を朱墨で書いた。そしてここが工夫なのだが、駒の動きは駒の字の周りに全て書き込んだ。そのような駒を袋に別々に入れていく。つまり「獅子」など という駒は、色々な将棋に登場するのに共用はせず、中将棋と書いた袋にも、大将棋と書いた袋にも、大々将棋と書いた袋にも一つずつ入っていることになる。
 一つずつと書いたのは、一つの将棋に対して袋を4つ用意していたからだ。先手の駒用の袋、後手の駒用の袋、盤用の袋、記録類を入れる袋である。そしてそ れらを大きな目玉クリップで留めていた。
 盤は厚紙に几帳面に線を引き、何枚かを合わせて一枚の盤になるようになっていた。これも将棋ごとにあり、ごく小さい字で枡の中に初期配置が書き込んで あった。これなら、確かに比較的短時間で駒を並べられる。また周囲に番号が入っていて、棋譜が書きやすくなっていた。

 初めにやったのは、禽象戯である。これは盤も小さく、駒も多くないので時間も比較的短く終わる。ただし、斜めに行く駒が多く、まだるっこさは免れない。 これだけは駒の再使用ができる。
 次に古いタイプの小将棋、大将棋をやった。現在「平安小将棋」「平安大将棋」などと呼ばれているものであるが、当時はまだそのような名称はな かった。平安小将棋は、ゲームとしては問題があった。小駒ばかりなので、紐をつけるということが難しく、手筋を作りにくいのである。もしかして、香車は ルーク、桂馬はナイトのように動いたのかも知れない。
 それから、現在の将棋に酔象を加えた小将棋。これは駒の再使用(持ち駒をはる)ができるかどうかが問題になったが、酔象が成ると太子になり、そうなると 王将を取られてもよく、すると王将が持ち駒になったりしてしまう。よって駒は取り捨てだろうということになった。
 更に、猛豹を加えた将棋も指してみた。

 ここまでは、割りに楽だったが、ここからは大変だった。
 まず、中将棋。これは駒数が多くて大変だが、比較的ルールが細部まで分かっているのでいい。獅子という特徴のある駒があるのが特徴で、この獅子 のルールが若干複雑である。この駒は居食いができるのだが、結局二歩しか進めないので、終盤食い物がなくなると走り駒にやられてしまう。時間はかかったが 完了した。

 こうして、大将棋、大々将棋、摩迦大々将棋、泰将棋と指してみた。泰将棋は紙の駒であった。
 細部は忘れてしまったが、どれも時間がかかったが、二日にわたったのはなかった。駒に動きが書いてある効果が大きい。また、泰将棋は棋譜はとらず、変わ りにカメラを用意した。
 とにかく大きい将棋は駒を前線に出すのが大変だ。また当時―つまり30年以上も前―の研究段階では、発見されていない文献もあり、成り駒のはっ きりしないのが結構あったように思う。将棋の種類によっては、成ると弱くなる駒も多く、本当のルールなのかは分からない。ただし大部分の、特に小駒は成る と強いので、成りを目指すのは序盤の目当てとして考えやすい。相手の駒を取ると成るなんてのもあったと思う。
 雰囲気としては、大々将棋までと、摩迦大々将棋以上ではちょっと違ったように思う。後者になると抹香臭い駒が多くなり、順列組み合わせで無理やり駒を 作ったのがありありとわかる。だが、ルールとしては却って整備されたようにも思われた。

 荻生徂徠の作った広将棋は特に指しにくく、途中で挫折した。和将棋、天竺将棋、三国象棋、七国象棋、国際三人将棋などは指していない。

 指したことがあると言うと、みんな「面白かったか?」と聞く。はっきり言って全く面白くない。泰将棋などは殆ど苦行のようであった。二度とやりたいとは 思わない。

 その後発見された、泰将棋を上回る大局将棋を、プロの将棋指しが三日かけて指したと聞くが、恐らく空前絶後の所業だろう。ギネスブックに登録するとい い。(もうしたのかな?)

 丸尾さんはその後、体を悪くされ、外出できなくなってしまった。あるとき見舞いに行ったら、きちんと袋に分けて整理した資料を
「君にやる。」
と言われて参った。私は丸尾さんの研究を手伝うために相手をしただけで、やはり丸尾さん自身が纏めるべきだと思ったのだ。
「とんでもない、貴重な資料なんですから、早く元気になってしっかり纏めて発表してくださいよ。」
と、私が言うと、丸尾さんは何も言わずにうなづいた。

 だが、その後丸尾さんは寝たきりとなってしまった。これではいけないと、見舞いに行き、資料をもらいうけようとしたが、もうそのときは話も通じなくなっ ていた。私は申し訳ないとは思ったが、勝手に部屋を探した。(もう時効ですよね。)
 しかし、そのときも、葬儀の後にも発見できなかった。誠に残念ながら、散逸してしまったのであろう。