コラム6.大将棋の変遷

作成2000.4.9.更新2005.5.10.

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 前節で解説しました平安小将棋にくらべて、平安大将棋は半世紀ほど歴史が古くなっています。それはあまり重要な事ではありません。単に平安大将棋に関する文献が平安小将棋よりも古くから残っていたと言う事です。推測ではありますが、平安小将棋も同時期から存在していたとするほうがかえって無難であると思われます。

あと、この年表ですが、当該将棋についての初資料の年代をもとに50年単位でグラフ化しています。ですから、実際に楽しまれていたのはもう少し以前からということが考えられるので、実際には50年前後のずれがあるだろうと思いますのであしからず。

 

平安大将棋

(これも当時の文献では大将棋とだけ記されており、私が区別しやすいように呼んでいるだけです。)

 

 前節の『二中歴』に(小)将棋とともに記述されていたのが、この平安大将棋です。ですが、大将棋に関してはもう少し古く、『台記』という公家の日記に、康治元年(1142)9月12日の日記において大将棋を楽しんだとする記録があり、その分年表では半世紀古くなっている理由です。

 

縦横13行・駒数68枚です。

  先に、メインページの中将棋解説を見てもらうと理解しやすいのですが、この平安大将棋は駒の動きが判明しているので、それについてだけ解説します。

注人…中将棋の仲人と同じ。後になって同じ発音が当て字になったもの。

奔車…これも、「はんしゃ」と呼んでおり、中将棋での反車と同じ。

猛虎…中将棋では盲虎の当て字となるが、動きは違っていて、ナナメ四方に1マス動く。

銅将…中将棋とは異なり、縦横に1マス。

鉄将…前3方に1マス。

飛龍…後の「角行」。ナナメ四方に走る。

これ以外は現代将棋・中将棋と同様です。で、成り駒に関しては詳細不明ですが、平安小将棋同様、全て金将扱いになっただろうと思われます。

 さて、この平安大将棋と平安小将棋が日本将棋の基本となって、それぞれ変化し、ルールや駒も増えていきます。でも結局は大将棋はあまりの複雑さに敬遠されるようになり、小将棋と、大小将棋から発展して誕生した中将棋が残り、大将棋は最も早くに歴史の中へ消え去る事となります。

 大将棋

 さて、平安大将棋から新しい形の大将棋に変化したことについての資料ですが、これも少将棋よりも早く、かつ詳細に記録されているようです。

 僧良季によって編纂された『普通唱導集』は1297年から1302年に執筆されたもので、そこに従来のものより一回り大きな大将棋に関する記述があります。

 

 

 縦横15行・駒数130枚です。

 この大将棋によって、より駒の種類が増え、後の現代将棋での必殺兵器、角行飛車が初登場します。

 また、成り駒についても大きな変化があり、全て成金だったものが駒ごとに異なる成り駒が用意され、遊ぶ側にとっては覚える事が多く、負担が重い将棋になってしまいました。

 あと、興福寺遺跡にて出土したにも関わらず、平安期将棋には出てこなかった酔象が、ここから本格的に登場することになりました。

  この大将棋がいつまで遊ばれたのか、詳細不明ではありますが、当時の記述を見る限りでは15世紀には記憶の品となっていたようで、『象棋六種之図式』の最初の写本とされる1443年に紹介されているころには、既に遊ばれなくなっていったようです。 

 前述のとおり、大将棋は少将棋とくらべ、複雑なルールが災いして、遊ばれる階級が貴族階級に限られてしまっていたのがすたれてしまう原因となったようです。また、その頃中将棋が登場して、貴族階級を中心に大将棋にとって変わる流行となり、消滅へ拍車をかけてしまいました。 一方、少将棋はその単純な駒数とルールが庶民階級にも広まる結果となり、武士階級を主にして日本将棋の主流へと流れたようです。そして、武士社会の総決算と言える徳川幕府によって、その地位を固めることとなります。

 

さて、次節は中将棋の登場がテーマとなります。